感想「嘔吐」(サルトル)
『嘔吐』の新訳がでたという記事を見たのをはっきり覚えている。そのとき、初めてサルトルという人と、『嘔吐』の存在を知った。だからわたしにとって、サルトルというと『存在と無』よりも『嘔吐』だ。
第一版の発行日が2010年7月20日だから、新訳を手にするまで4年もかかってしまった。
もちろん、旧訳は買った。古本屋で安く入手したから、表紙は破れかぶれで、文字も小さい。なんて難解だろうと思い、一度目を通しただけで本棚にしまいこんでしまったのだった。
主人公のロカンタンは、数年に及び世界中を旅したのち、ブーヴィルのホテルに住み着いた独身の男性。職業はないが、何かしらの不労所得がある高等遊民である。
彼はロルボン公爵という十八世紀の貴族に関する研究をするため図書館へ行ったり、少し離れた街まで散歩にいったりするほかは、たいした趣味もなく、ほとんど孤独である。(サルトルはこういった自由で孤独な存在を「単独者」と呼んだ)
そういった孤独な生活のなかで、ロカンタンは突然、物が存在していることに奇妙な違和感を覚える。
もしも存在とは何かと訊かれたら、私は本気でこう答えただろう、それは何でもない、せいぜい、外から物に付け加わった空虚な形式にすぎず、物の性質を何一つ変える物ではない、と。それから不意に、存在がそこにあった、それは火を見るよりも明らかだった。存在はとつぜんヴェールを脱いだのである。存在は抽象的な範疇に属する無害な様子を失った。…(中略)…あとには妖怪じみた、ぶよぶよした、混乱した魂が残ったーーーむき出しの魂、恐るべき、また猥褻な裸形の塊である。
存在はすべて偶然であり、それは人間も同様である。人間もまた、すべて余計な存在である。そう確信したロカンタンは、その後痛烈にヒューマニズムを批判する。
誰もが「余計な者」であるのに、人々は群れ、存在に気づくのを避ける。エリートたちは自分たちに存在価値があると信じて疑わない。ロカンタンが彼らを「下種ども」と呼ぶのは爽快だ。
そしてロカンタンは、「存在者は絶対に、他の存在者の存在を正当化できない」ということを悟り、ロルボン氏に関する歴史研究もやめ、昔の恋人アニーへの未練も捨て、ブーヴィルを去る。
Wikipediaには「実存主義における聖典の1つと広く考えられている」とあるが、あとがきによるとサルトルは、本作を著した当時は実存主義をまだ構築しておらず、大半はフッサールの現象学の影響が大きいという。
確かに現象学の影響は随所に見られる。
私はマロニエの根だった。と言うよりもむしろ、完全に根の存在の意識になりきっていた。
とはいえ現象学は不勉強なので、「そう言われてみれば」程度なのですが。
わたしはこの本にひどく救われました。この本を大切にしようと思いました。
いつも存在について感じていたことを、サルトルもまた感じていたのです。
三島由紀夫は異国の人間が読むと「日本的だ」と感じるが、太宰治については国の隔たりを超えて共感するらしいという記事を読んだことがあります。「この人はわたしと同じだ」と。サルトルは太宰治的であると思います。『嘔吐』を読み、私も、私の周りのものもまた「余計なもの」だと分別されることはとても有り難いことです。
そして、『嘔吐』の最後の行を読んだあとに思ったこと、それは、シモーヌ・ド・ボーヴォワールとプルーストに今すぐ触れなければならないということ。そのどちらもまだ知らないのを恥ずかしく思います。